世界に広がる猫たち
中東あたりで家畜化が始まり、やがてエジプト王朝に受け入れられた猫は、次第にその勢力を全世界へと広げてゆきます。では、一体どのようにして猫たちは世界に広がっていったのでしょうか?
BC1000~BC200
古代エジプト王朝において黄金期を迎えていた猫は、王の命令によって輸出が禁止されており、特殊要員を地中海沿岸の隣接地域に派遣し、海外に密輸された猫を買い戻すことまでしていました。にもかかわらず、紀元前1000年ごろになるとローマを始めとする南ヨーロッパや中東にも、ちょくちょく渡っていったと考えられます。これはおそらく、エジプトと交易のあったギリシア人やフェニキア人の商人の手によるものでしょう。
猫は当時の古代ギリシア人やローマ人にとっても、ネズミを退治してくれるということで大変重宝な存在でした。一方、古代ローマ美術に描かれる猫の姿は、そのほとんどが「職務」(=ネズミ狩り)を遂行している姿であることから、ローマ人はエジプト人とは違い、猫を崇拝するというようなことはなかったようです。
ヨーロッパ各地へ拡大を続けていたローマ軍は、兵隊の食料を保管する倉庫係として、行く先々に猫を連れて行きました。軍に同行した猫の中から脱走した何匹かが、森の中や高地に生息していたヤマネコと交配し、結果としてヨーロッパ各地に猫が広がったと考えられます。
ヨーロッパ各地へ拡大を続けていたローマ軍は、兵隊の食料を保管する倉庫係として、行く先々に猫を連れて行きました。軍に同行した猫の中から脱走した何匹かが、森の中や高地に生息していたヤマネコと交配し、結果としてヨーロッパ各地に猫が広がったと考えられます。
- 猫を抱いた少女の墓碑
- ローマ帝国の州の1つだったガリア・アキタニア(Gallia Aquitania/今のフランス・アキテーヌ地方)の遺跡で、猫を抱いた少女の墓碑(ぼひ)が発掘されました。当時のガリア人とローマ人は、子供が死んだとき、天国でも寂しくならないよう生前に大切にしていたおもちゃと共に埋葬し、またペットと一緒にいる姿を墓碑という形で石に刻みました。この墓碑は紀元100年頃のものと考えられおり、当時のヨーロッパにおける猫の家畜化を示す重要な遺物の1つです。
BC200~AD1400
紀元前200年頃から紀元1400年頃になると、猫はヨーロッパからアジアへとその勢力を伸ばしていきます。この勢力拡大には、ローマ帝国の拡大、絹交易の繁栄、仏教やキリスト教の宣教師による布教活動などが影響しています。
紀元前300~30頃に存在していた「プトレマイオス朝エジプト」の時代にはすでに、紅海とインドとを結ぶ通商路が存在していたといいます。そして後にエジプトを征服した古代ローマは、国と同時にこの貿易路も継承し、インドのみならず中国とも交易を行うようになりました。ローマ帝国時代の初期(1~3世紀頃)に栄えたエジプトの港町「ベレニケ」(現エジプト・バフルアルアフマル付近)では動物たちの専用墓地が発見されています。発掘された遺骨の中で圧倒的な多数を占めるのが猫で、少数の例外を除き副葬品がないことや、ミイラでよく見られる意図的な殺害の痕跡が見られないこと、人間の遺骨がないことなどから、おそらく家庭で飼われていたペットの墓地だろうと推測されています。 7世紀以降になると、ペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて中国を訪れ、広州などに居留地を築いたといいます。猫の生息地がアジア圏内にまで広がった背景には、アジアと取引のあった商船に害獣駆除役として乗り込み、行く先々で土着の猫と交配したという経緯がありそうです。
ジャンケントはシルクロードからはやや北に外れた位置にある都市ですが、ペルシャとロシアとの間で行われていた長距離交易の中継地点として機能していたと考えられています。猫たちは交易品とともに都市間で授受されていたのでしょうか。 上記シルクロード猫はペットとして大切に扱われていた可能性が高いと考えられます。しかし場所が変われば猫の扱い方も変わってしまうようです。 例えばデンマークのオーデンセという遺跡では1,783体、ロスキレの遺跡(AD1200~1400)では434体という膨大な数の猫の骨が発掘されており、毛皮を取るための産業動物として扱われていたのではないかと考えられています。バイキング時代(AD793~1066)から中世前期(AD1050~1550)に属する猫たちの体は、現代の猫より一回りほど小さかったといいますので、栄養状態があまりよくなかったのかもしれません。
紀元前300~30頃に存在していた「プトレマイオス朝エジプト」の時代にはすでに、紅海とインドとを結ぶ通商路が存在していたといいます。そして後にエジプトを征服した古代ローマは、国と同時にこの貿易路も継承し、インドのみならず中国とも交易を行うようになりました。ローマ帝国時代の初期(1~3世紀頃)に栄えたエジプトの港町「ベレニケ」(現エジプト・バフルアルアフマル付近)では動物たちの専用墓地が発見されています。発掘された遺骨の中で圧倒的な多数を占めるのが猫で、少数の例外を除き副葬品がないことや、ミイラでよく見られる意図的な殺害の痕跡が見られないこと、人間の遺骨がないことなどから、おそらく家庭で飼われていたペットの墓地だろうと推測されています。 7世紀以降になると、ペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて中国を訪れ、広州などに居留地を築いたといいます。猫の生息地がアジア圏内にまで広がった背景には、アジアと取引のあった商船に害獣駆除役として乗り込み、行く先々で土着の猫と交配したという経緯がありそうです。
猫が生息していた証拠
- インド~BC300年頃
- 中国~BC200年頃
- イタリア~AD400年頃
- スイス~AD200年頃
- イギリス~AD400年頃
- ドイツ~AD1000年頃
ジャンケントはシルクロードからはやや北に外れた位置にある都市ですが、ペルシャとロシアとの間で行われていた長距離交易の中継地点として機能していたと考えられています。猫たちは交易品とともに都市間で授受されていたのでしょうか。 上記シルクロード猫はペットとして大切に扱われていた可能性が高いと考えられます。しかし場所が変われば猫の扱い方も変わってしまうようです。 例えばデンマークのオーデンセという遺跡では1,783体、ロスキレの遺跡(AD1200~1400)では434体という膨大な数の猫の骨が発掘されており、毛皮を取るための産業動物として扱われていたのではないかと考えられています。バイキング時代(AD793~1066)から中世前期(AD1050~1550)に属する猫たちの体は、現代の猫より一回りほど小さかったといいますので、栄養状態があまりよくなかったのかもしれません。
AD1400~
紀元1400年頃からは、いわゆる大航海時代(だいこうかいじだい)の幕開けです。 それまでは海域ごとに孤立していた地球上のすべての海洋をひとつに結び付けたことから「大航海」と呼ばれます。
当時、通商や貿易、あるいは世界探索に際して猫が船に同乗するという光景は頻繁に見られ、こうした猫はShip's Cat(船猫)と呼ばれました。猫はたくさんの理由で船に同乗しましたが、最も大きな理由はハツカネズミやドブネズミなどを退治してくれるということです。こうしたげっ歯類はロープや木造部品に致命的なダメージを与えると共に、船員の食料や積荷などをオシャカにする極めて厄介な存在でした。また病気を仲介することもありますので、上陸する機会の少ない閉塞された「船の中」という密閉空間においては、まさに疫病神だったのです。
そうした厄介者のネズミを退治してくれる猫は、船員たちの命を守ってくれる非常に重要な存在であると同時に、格好のアイドルでもありました。また現存する航海用語の中にも「cat」という言葉が多く残っていることからも、猫と船の関連性がうかがえます。
当時、通商や貿易、あるいは世界探索に際して猫が船に同乗するという光景は頻繁に見られ、こうした猫はShip's Cat(船猫)と呼ばれました。猫はたくさんの理由で船に同乗しましたが、最も大きな理由はハツカネズミやドブネズミなどを退治してくれるということです。こうしたげっ歯類はロープや木造部品に致命的なダメージを与えると共に、船員の食料や積荷などをオシャカにする極めて厄介な存在でした。また病気を仲介することもありますので、上陸する機会の少ない閉塞された「船の中」という密閉空間においては、まさに疫病神だったのです。
そうした厄介者のネズミを退治してくれる猫は、船員たちの命を守ってくれる非常に重要な存在であると同時に、格好のアイドルでもありました。また現存する航海用語の中にも「cat」という言葉が多く残っていることからも、猫と船の関連性がうかがえます。
「CAT」を含む航海用語
- Cat head吊錨架(ちょうびょうか)。錨(いかり)を支えるために船体から伸びる横木。
- Cat o' nine tails 九尾の猫。先が9つに分かれたムチで、甲板長が船員に刑罰を与えるときに用いられる。
- Catboat一本マストの帆船。
- Cat吊錨架(ちょうびょうか)に錨を用意すること
猫に関する伝説
- 猫がくしゃみをすると雨になる
- しっぽに宿る魔法の力で嵐を起こすことが出来る
- 船乗りの妻が黒猫を飼うと、船上の主人が無事に帰ってくる
- 看板にいる船乗りの所に、猫が自分から近づいていくのは幸運の印
- 猫が船外に落ちると、致命的な嵐が巻き起こる。たとえ何事もなく船が帰還したとしても、その後9年間にわたって不運に付きまとわれる
船員たちに愛された偉大な船猫としては、ミセスチッピー、トリム、サイモンなどが有名です。次のセクションでは猫の暗黒について解説します。
猫迫害の暗黒時代
5~15世紀にかけての時代は、一般的に中世と呼ばれますが、猫たちは「船猫」として丁重に扱われる反面、魔女の手先として迫害されるという暗黒時代も経験します。
「魔女」とは、悪霊と交わり魔力を得た女性のことで、中世においては人々に災厄をもたらすと考えられていました。15世紀に入ると、魔女と魔術に関する書物が一種のブームとなり、また16世紀から17世紀に入ると、無実の人々に言いがかりをつけて「魔女」として処刑する「魔女狩り」が最盛期を迎えます。 魔女狩り 多くの宗教指導者が「猫は魔女の手先である」と吹聴すると、猫も迫害を受け始めます。魔女と猫とが結び付けられた背景には、猫の「非従順性、夜行性、そして暗闇で不気味に光る目」などの要因があったようです。
猫を飼っている独身の女性は魔女と見なされ、飼っていた猫と共にあらゆる方法で処刑されました。その中には生きたまま火あぶりの刑に処せられたり、高い塔の上から放り投げられる等、残虐なものも含まれます。結果としてヨーロッパにおける猫の絶対数が減少し、ネズミが媒介する「黒死病」(ペスト)の蔓延を助長したという説まであります。
中でも黒猫(「魔女の宅急便」のキキも黒猫ですね)は最もひどい迫害を受けましたが、「黒猫=邪悪」というイメージは、今の世の中にも残っているようです。「黒猫が目の前を通り過ぎるのは不吉の前兆」という迷信は今でもありますし、欧米では動物の保護センターにおいて最ももらい手の少ないのは黒猫(なぜか黒い犬も人気が薄い)だといいます。また「Ailurophobia」(アイルーロフォウビア=猫恐怖症)という病名すら存在するくらいです。なお、黒猫が不吉の象徴とみなされるようになった過程については、「黒猫は不幸をもたらす」というページでも詳述していますのでご参照ください。
「魔女」とは、悪霊と交わり魔力を得た女性のことで、中世においては人々に災厄をもたらすと考えられていました。15世紀に入ると、魔女と魔術に関する書物が一種のブームとなり、また16世紀から17世紀に入ると、無実の人々に言いがかりをつけて「魔女」として処刑する「魔女狩り」が最盛期を迎えます。 魔女狩り 多くの宗教指導者が「猫は魔女の手先である」と吹聴すると、猫も迫害を受け始めます。魔女と猫とが結び付けられた背景には、猫の「非従順性、夜行性、そして暗闇で不気味に光る目」などの要因があったようです。
猫を飼っている独身の女性は魔女と見なされ、飼っていた猫と共にあらゆる方法で処刑されました。その中には生きたまま火あぶりの刑に処せられたり、高い塔の上から放り投げられる等、残虐なものも含まれます。結果としてヨーロッパにおける猫の絶対数が減少し、ネズミが媒介する「黒死病」(ペスト)の蔓延を助長したという説まであります。
中でも黒猫(「魔女の宅急便」のキキも黒猫ですね)は最もひどい迫害を受けましたが、「黒猫=邪悪」というイメージは、今の世の中にも残っているようです。「黒猫が目の前を通り過ぎるのは不吉の前兆」という迷信は今でもありますし、欧米では動物の保護センターにおいて最ももらい手の少ないのは黒猫(なぜか黒い犬も人気が薄い)だといいます。また「Ailurophobia」(アイルーロフォウビア=猫恐怖症)という病名すら存在するくらいです。なお、黒猫が不吉の象徴とみなされるようになった過程については、「黒猫は不幸をもたらす」というページでも詳述していますのでご参照ください。
ハロウィンの裏側で…
日本では全く浸透していませんが、10月31日は「ハロウィン」といって、大勢の人々が仮装して街を練り歩いたり、家を訪問してお菓子をもらったりします。しかしその裏側で、猫に関する決して笑えない話もあります。
ハロウィンが近づくと、動物保護施設(通称「シェルター」)にやってきて猫を迎え入れたいという人々が増えるそうです。中には本当に家族の一員として迎え入れる人もいますが、その一方、ハロウィンの仮装の単なる飾りとして猫(特に黒猫)を引き取る人がいるとのこと。そういう人はペットを飼うつもりなど始めからないので、ハロウィンが終わると同時に捨てられます。
ですからシェルターではハロウィンが近づくと猫の養子縁組を控えたり、譲渡条件を厳しくするところが増えてきているそうです。また「一部のカルト集団がハロウィンにあわせて猫を殺して解剖したりする」というまことしやかな噂も手伝い、シェルターにおける引取り希望者の選別が、従来のものよりも厳しくなりつつあります。
ハロウィンが近づくと、動物保護施設(通称「シェルター」)にやってきて猫を迎え入れたいという人々が増えるそうです。中には本当に家族の一員として迎え入れる人もいますが、その一方、ハロウィンの仮装の単なる飾りとして猫(特に黒猫)を引き取る人がいるとのこと。そういう人はペットを飼うつもりなど始めからないので、ハロウィンが終わると同時に捨てられます。
ですからシェルターではハロウィンが近づくと猫の養子縁組を控えたり、譲渡条件を厳しくするところが増えてきているそうです。また「一部のカルト集団がハロウィンにあわせて猫を殺して解剖したりする」というまことしやかな噂も手伝い、シェルターにおける引取り希望者の選別が、従来のものよりも厳しくなりつつあります。
ペットとして復活した猫
猫にとっての暗黒時代とも言える「魔女狩り」の最盛期は16世紀から17世紀でしたが、17世紀末になると急速に衰退していきます。衰退の要因としては様々な説がありますが、ガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)、ルネ・デカルト(1596年~1650年)、あるいはアイザック・ニュートン(1643年~1727年)など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、人々の意識を変えたことや、知識階級の魔女に対する見方が変化し、安易に処刑をしなくなったことなどが挙げられます。
一般庶民が魔女や悪魔を恐れて「魔女」を告発しても、前近代的な考え方から脱却した裁判を担当する知識階級が無罪放免にしてしまうというケースが増え、魔女裁判そのものが機能しなくなっていったのです。
一般庶民が魔女や悪魔を恐れて「魔女」を告発しても、前近代的な考え方から脱却した裁判を担当する知識階級が無罪放免にしてしまうというケースが増え、魔女裁判そのものが機能しなくなっていったのです。
- リシュリュー枢機卿
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リシュリュー枢機卿(リシュリューすうきけい, Cardinal Richelieu, 1585~1642)はフランス・ルイ13世の宰相兼カトリック教会の最高顧問だった人物で、王に比肩するほど独裁的で娯楽好きな人物でした。
彼の好んだ娯楽の内、当たり障りのないものは「猫好き」という点でしょう。彼は、自分自身が魔女狩りを主導したり猫を処刑していたにもかかわらず、「ルシファー」(キリスト教の伝統においては、ルシファーは堕天使の長であり、サタンや悪魔と同一視される)という、およそクリスチャンに似つかわしくない名の黒いアンゴラ猫を飼っていたという変わり者です。
猫は彼の寝室の隣の部屋で飼育されており、時には彼のベッドで眠ることもあったそうです。彼には認知した子供がいなかったため、死後その莫大な財産は残された猫の世話に回されるはずでした。しかし生前の独裁的な政治手腕から敵も多く、結局残された14匹の猫たちは、スイスの兵たちによって焼き殺されてしまったといいます。
社会的地位の高い彼が猫を飼っていたことにより、フランス一般大衆の猫に対する恐怖感や憎悪が緩和されたといわれています。