伝説の出どころ
猫に食べさせてはいけない食材の一つに「アワビ」があり、その理由として「耳が落ちてしまうから」という説明がよくなされます。この風説の出どころとして最も古いものは、江戸時代の1712年に発行された百科事典「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)内にある以下の一節です。
上記した話は全て、「猫の歴史と奇話」(築地書館)の中で紹介されているものですが、残念ながらアワビと猫の耳を結び付ける明確なメカニズムまでは解説されていません。しかし人間において報告されているある種の皮膚炎が、「耳が落ちる」という奇妙な現象を解き明かす際のヒントになってくれそうです。 光合成をおこなう葉緑素「クロロフィル」を摂取することで発生する皮膚炎は、「クロロフィル性日光過敏症」もしくは「クロレラ皮膚炎」と呼ばれており、アワビと深いかかわりを持っています。以下は厚生労働省が公開している「自然毒のリスクプロファイル」のデータをまとめたものです。
猫、鳥貝の腸を食へば、則ち、耳欠落す、往々之を試むるに然り(猫がからす貝のはらわたを食べると耳が落ちてしまうので与えてはいけない)その後に発行された医学書「俗説正誤夜光璧」(1728年)の中にも、「猫児これを食へば耳が落つるということ虚談にあらず、烏貝の腸を食うたる猫は、耳の尖より火にて焦がしたるやうになりて漸々に欠け損じ、耳の根ばかり残りて、画ける虎の耳のごとくなるなり」という表現が見られます。また江戸時代の絵入り娯楽本「朧月猫の草紙」(おぼろづきねこのそうし, 1840年代)の中には、医者に扮した猫が、耳の不調を訴える患者猫に対し「猫にからす貝を食べさせてはいけません。食べればできものができて耳が落ちますよ」と説く場面が描かれています(下図)。こうした文献資料から考えると、少なくとも江戸時代中期には「アワビを食べると猫の耳が落ちる」という俗説が成立していたものと推測されます。 この俗説はその後、明治・大正を生き抜き、昭和の時代にも継承されたようです。1960年(昭和35)、東大水産学の橋本芳郎氏は岩手県宮古市の海岸「重茂」(おもえ)に赴き、現地の漁師から「春先のアワビのツノワタ(内臓)を猫に食べさせると耳が落ちる」と言い伝えを確認しています。当地の人々によると、猫が春先のアワビの内臓部分を食べてしまうと、皮膚がまるでウルシにかぶれたように赤く腫れ、しきりに耳を引っ掻くようになり、しまいにはヒラヒラの耳介部分が取れてなくなってしまうと言うのです。
上記した話は全て、「猫の歴史と奇話」(築地書館)の中で紹介されているものですが、残念ながらアワビと猫の耳を結び付ける明確なメカニズムまでは解説されていません。しかし人間において報告されているある種の皮膚炎が、「耳が落ちる」という奇妙な現象を解き明かす際のヒントになってくれそうです。 光合成をおこなう葉緑素「クロロフィル」を摂取することで発生する皮膚炎は、「クロロフィル性日光過敏症」もしくは「クロレラ皮膚炎」と呼ばれており、アワビと深いかかわりを持っています。以下は厚生労働省が公開している「自然毒のリスクプロファイル」のデータをまとめたものです。
クロロフィルによる皮膚炎
- 原因食材 皮膚炎の原因となるのはのは、クロアワビ、エゾアワビ、メガイ、トコブシ、サザエといった貝の「中腸腺」(ちゅうちょうせん)と呼ばれる部位だけです。海藻の中に含まれるクロロフィルは、貝に食べられた後この部位に蓄積されていきます。おおむね2月から5月の春先にかけて色が濃くなっていきますが、なぜこの季節に強毒化するのかに関してはよくわかっていません。
- 発症メカニズム 毒の成分は、クロロフィルが酵素によって分解されて生成される「フェオホルバイド」および「ピロフェオホルバイドa」という化学物質です。これらの物質に可視光線が当たると、強い蛍光を発して活性酸素を作り出します。そして活性化された酸素は、細胞膜を構成している脂肪酸などを酸化して過酸化脂質を作り出します。最終的にはこの過酸化脂質が炎症反応を引き起こし、腫れやかゆみといった症状を引き起こします。これが皮膚炎の発症メカニズムです。
- 皮膚炎の症状 アワビを始めとする貝類の内臓を食べて症状が出るのは摂取後1~2日してからです。日光の当たりやすい顔面、手、指などに炎症が起こり、赤み、腫れ、痛み、かゆみなどが引き起こされます。ひどい場合はやけどのような水ぶくれができることもありますが命を脅かすことはなく、おおよそ20日で回復します。
- 発症例 「クロロフィル性日光過敏症」の人間における発症例は極めて少なく、明治時代に北海道奥尻島と長崎県壱岐島で1件ずつ、そして1947年3月に岩手県気仙郡三陸町で1件の報告例がある程度です。いずれも加熱不足のアワビを大量に摂取した後、日光に当たったことが原因だと考えられます。一方、「クロレラ皮膚炎」は1970年代に7件の報告があります。こちらは加熱不足のクロレラ加工品が原因だったようです。以降、原材料に対する加熱処理が指導されるようになりました。
伝説の検証
アワビを食べた猫の耳が落ちるという現象は、可能性としてはありうるものの、実際に確認した人がいるかどうかは分かりません。しかし東北において「春先のアワビのツノワタを猫に食べさせると耳が落ちる」という風説が出来上がったのには、それなりの理由があるはずです。例えば、採れたての貝類を漁港でさばいている状況を想像してみましょう。
漁師さんたちは、海で採ってきた貝を開いた後、腸だけを切り取り、1ヶ所に貯めておきます。そこにやってくるのが、魚の匂いにつられて集まってきた繁殖期真っ最中の野良猫たちです。猫たちは人間の目を盗んで、腸の入った容器に飛びつき、ガツガツと貪り食います。それを見つけた漁師さんは「シッ!」と追い払うものの、すでに容器は空です。そして数日後、ひなたぼっこをしている猫たちの耳が真っ赤に腫れ、かゆみが出始めます。ガリガリと掻きむしる光景を見た漁師さんは「ああ…アワビをくすねたバチが当たったな」と考えることでしょう。
こうした光景が東北の漁港で繰り返された結果、いつの間にか「春先のアワビのツノワタを猫に食べさせると耳が落ちる」という風説が出来上がっていったのではないでしょうか。
こうした光景が東北の漁港で繰り返された結果、いつの間にか「春先のアワビのツノワタを猫に食べさせると耳が落ちる」という風説が出来上がっていったのではないでしょうか。
- 浮世絵に見るアワビ
- 江戸時代に大流行した猫の浮世絵の中には、なぜかアワビの貝殻が多く描かれています。実はこの貝殻、江戸時代の初期から猫用の食器として広く用いられていたものであり、民俗学的にいうと「猫という客人神を人の家に招き留める呪物的な祭器」という意味合いがあるそうです(「猫の民俗学」, 大木卓)。アワビの器を作る際、あまりおいしくないはらわた部分を取り除き、野良猫や飼い猫に投げ与えていたのだとすると、江戸の町においても耳が落ちてしまう猫の姿が頻繁に見られたかもしれません。
伝説の結論
「アワビを食べると猫の耳が落ちる」という風説には、それなりの根拠がありました。漁港の想像では、猫を泥棒として描きましたが、野良猫を哀れに思った漁師さんが、積極的に貝の廃棄部分を与えていた可能性も考えられます。また、漁港の片隅に落ちていた内臓を、猫が勝手に拾い食いしたという可能性もあるでしょう。いずれにしても、猫がアワビの内臓(中腸腺)を食べ、結果として皮膚炎を発症したという状況は、十分起こりうると推測されます。
さて、猫にも人間にも起こりうるクロロフィル性日光過敏症ですが、予防することはそれほど難しくありません。具体的には以下のような点に注意してれば問題ないでしょう。
クロロフィル皮膚炎予防法
- 中腸腺を避ける アワビの中で毒を持っているのは中腸腺と呼ばれる部位だけです。あらかじめこの部分を取り除いておけば食べても問題ありません。乳白色の本体の脇に緑っぽい腸がくっついていますので、見分けるのは簡単です。
- 加熱する クロロフィルを分解する「クロロフィラーゼ」と呼ばれる酵素は熱に弱いとされます。100℃のお湯で3分間加熱すれば失活しますが、すでに腸内に蓄積された「フェオホルバイド」および「ピロフェオホルバイドa」はそのままです。
- 大量に食べない ラットにおける経口投与実験では体重1kg当たり50mgの摂取で発症すると言われています。ですから体重50kgの人間の場合、2.5gが限界摂取量と言うことになります。