猫の「よろよろ病」とは
猫の「よろよろ病」(Staggering Disease)は1970年代に最初の報告があって以来、半世紀以上にわたって原因不明とされてきたミステリアスな神経系疾患。慣習的に用いられる「staggering」という単語はふらふら、ふらつき、千鳥足、よろめきなどの意味合いを持っていますが、日本語の対訳が確定していないため当ページ内では便宜上、文献内で使用例がある「よろよろ病」と呼称していきます。
非化膿性の髄膜脳脊髄炎が引き起こされ、顕微鏡的には中枢神経灰白質における血管中心性の免疫細胞浸潤と血管周囲浮腫を特徴としており、肉眼で確認できる主症状としては以下のような項目が報告されています。
顕微鏡所見から推察する限り何らかのウイルスが関わっている可能性が指摘されていましたが、病原体の正体や感染ルートに関してはよくわかっていませんでした。
非化膿性の髄膜脳脊髄炎が引き起こされ、顕微鏡的には中枢神経灰白質における血管中心性の免疫細胞浸潤と血管周囲浮腫を特徴としており、肉眼で確認できる主症状としては以下のような項目が報告されています。
よろよろ病の主症状
- 後ろ足の運動失調
- 筋トーヌスの亢進
- 歩行不全
- 爪を引っ込められない
- 知覚過敏
- 振戦
- 発作
顕微鏡所見から推察する限り何らかのウイルスが関わっている可能性が指摘されていましたが、病原体の正体や感染ルートに関してはよくわかっていませんでした。
調査対象と方法
今回の調査を行ったのはドイツにあるルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンのチーム。足がかりとなったのは、ドイツ国内において風疹ウィルスの近縁にあたる「ルストレラ(rustrela)」と呼ばれるウイルスに感染した動物園の患畜たちが、猫の「よろよろ病」とよく似た症状を呈したことでした。
調査対象となったのは過去によろよろ病と診断された29頭の猫たち。スウェーデン(15)、オーストリア(9)、ドイツ(5)からホルマリンや冷凍環境で保存された神経組織サンプルを取り寄せ、以下に述べる3つの方法でウイルスの存在を多角的に確認していきました。
調査対象となったのは過去によろよろ病と診断された29頭の猫たち。スウェーデン(15)、オーストリア(9)、ドイツ(5)からホルマリンや冷凍環境で保存された神経組織サンプルを取り寄せ、以下に述べる3つの方法でウイルスの存在を多角的に確認していきました。
ウイルスの確認方法
- 免疫組織染色免疫組織染色(IHC)とは組織内の抗原を検出する際、抗原と特異的に反応する抗体を利用する検査法。検出結果は顕微鏡下で観察することができる。
- ISHISHとは組織や細胞内における特定のDNAやmRNAの分布や量を検出する方法。
- PCRPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)とは生物のDNAを複製して増幅させる技術。
調査結果
合計29のサンプルを上記3つの方法で調べたところ、29頭中27頭では検査法のうち少なくとも2つで陽性反応が出たといいます。また全く別の原因で脳炎を発症した猫たちや、脳炎を発症しなかった患猫たちの神経組織を比較対照群として調べましたが、PCR(29頭)でもIHC(29頭)でもISH(17頭)でもウイルス抗原やRNAが全く検出されなかったそうです。
Mystery of fatal ‘staggering disease’ unravelled: novel rustrela virus causes severe meningoencephalomyelitis in domestic cats
Matiasek, K., Pfaff, F., Weissenbock, H. et al., Nat Commun 14, 624 (2023), DOI:10.1038/s41467-023-36204-w
Matiasek, K., Pfaff, F., Weissenbock, H. et al., Nat Commun 14, 624 (2023), DOI:10.1038/s41467-023-36204-w
よろよろ病の正体
29頭の患猫たちのうち77.8%(21頭)がオス、すべて成猫で中央値は3.2歳(1.5~12.3)でした。また飼育状況が把握できた患猫に関しては全頭が屋外アクセスできる状態(≒放し飼い)でした。また冬~春(12~5月)にかけての報告が18頭だったのに対し、夏~秋(6~11月)のそれが7頭と、明白な季節性を示していました。
ボルナ病ウイルスの可能性は?
猫のよろよろ病の原因としてはこれまで、ウマの脳膜脳脊髄炎をもたらすボルナ病ウイルスが仮説として提唱されてきました。
さらにこのボルナ病ウイルスが極めて地域限定的であること、および猫の症例報告があった地域でウイルスの存在が確認されなかったことなどから、よろよろ病の原因になった可能性は薄いと考えられています。
- ボルナ病ウイルス
- ボルナ病ウイルス(Borna Disease Virus; BDV)はウマの脳膜脳脊髄炎を引き起こす神経向性ウイルスの一種。ウマのほかヒツジ、ウシ、ネコ、ダチョウ、イヌなどの動物にも自然感染する。また実験室レベルでは鳥類、齧歯類、霊長類など幅広い動物に対する感染能も有していることが確認されており、人においてはある種の精神疾患との関連性が指摘されている。日本獣医学会
さらにこのボルナ病ウイルスが極めて地域限定的であること、および猫の症例報告があった地域でウイルスの存在が確認されなかったことなどから、よろよろ病の原因になった可能性は薄いと考えられています。
感染ルートは?
仮にルストレラウイルスがよろよろ病の発症に関わっているとした場合、いったいどのような感染ルートが考えられるのでしょうか?
調査チームは最初にウイルスによる報告があったドイツ北部バルト海に近い地域にある動物園の先例から、キクビアカネズミ(Apodemus flavicollis)の可能性を検証しました。よろよろ病が発生した地域の近隣で同種のネズミを10匹ほど捕獲して調べましたが、ルストレラウイルスのRNAは検出されなかったといいます。
一方、同じく発症エリアで捕獲された106匹のモリアカネズミ(Apodemus sylvaticus)をPCRで調べたところ、8匹(7.5%)からウイルスRNAが検出されたとのこと。 さらにモリアカネズミの個体数変動(春に増える)と症例報告の季節変動(冬~春に多い)が連動している点、飼育状況が把握できた患猫に関しては全頭屋外アクセスできた点から考え、屋外でネズミを捕食した際に感染した可能性が高いのではないかと想定されています。
調査チームは最初にウイルスによる報告があったドイツ北部バルト海に近い地域にある動物園の先例から、キクビアカネズミ(Apodemus flavicollis)の可能性を検証しました。よろよろ病が発生した地域の近隣で同種のネズミを10匹ほど捕獲して調べましたが、ルストレラウイルスのRNAは検出されなかったといいます。
一方、同じく発症エリアで捕獲された106匹のモリアカネズミ(Apodemus sylvaticus)をPCRで調べたところ、8匹(7.5%)からウイルスRNAが検出されたとのこと。 さらにモリアカネズミの個体数変動(春に増える)と症例報告の季節変動(冬~春に多い)が連動している点、飼育状況が把握できた患猫に関しては全頭屋外アクセスできた点から考え、屋外でネズミを捕食した際に感染した可能性が高いのではないかと想定されています。
日本国内での危険性は?
当調査によりルストレラウイルスがよろよろ病の原因である可能性が極めて高いことが判明しましたが、日本国内で感染の危険性はあるのでしょうか。また人間に感染して同種の症状を引き起こす可能性はあるのでしょうか。
2023年の時点で、猫のよろよろ病はスウェーデン(ストックホルムとウプサラの中間にあるメーラル湖周辺の地域/1970~現在)、オーストリア(ウィーン北東部/1990年代初頭のみ)、ドイツ(北部のみ)のごく限られた地域だけで多発しているエンデミックな神経疾患です。症例報告の限局性から考えると、少なくとも新型コロナウイルスのように空気感染して爆発的に広がるという可能性は低いと考えられます。一方、モリアカネズミとの関連性から考え、ウイルスを保有した小動物を捕食することが感染リスクを高めると推測されます。
人間への感染性については、実験室レベルで霊長類に感染することが確認されている程度で、ヒトにおける病原性の調査は十分に進んでいません。スウェーデンなど病気のホットスポットから、ウイルスを保有した動物が日本国内に大量に入ってくる状況はちょっと想像しにくいと思われます。
2023年の時点で、猫のよろよろ病はスウェーデン(ストックホルムとウプサラの中間にあるメーラル湖周辺の地域/1970~現在)、オーストリア(ウィーン北東部/1990年代初頭のみ)、ドイツ(北部のみ)のごく限られた地域だけで多発しているエンデミックな神経疾患です。症例報告の限局性から考えると、少なくとも新型コロナウイルスのように空気感染して爆発的に広がるという可能性は低いと考えられます。一方、モリアカネズミとの関連性から考え、ウイルスを保有した小動物を捕食することが感染リスクを高めると推測されます。
人間への感染性については、実験室レベルで霊長類に感染することが確認されている程度で、ヒトにおける病原性の調査は十分に進んでいません。スウェーデンなど病気のホットスポットから、ウイルスを保有した動物が日本国内に大量に入ってくる状況はちょっと想像しにくいと思われます。
日本で危険なのはボルナ病?
ヨーロッパ国内でよろよろ病と診断された今調査内の患猫に限っては、ボルナ病ウイルスが発症に関わっている可能性が低いことが明らかになりました。しかしこの事実は、このウイルスが神経系疾患に関わっていないことの証明にはなりません。
日本国内でもかつて、猫におけるボルナ病ウイルスの病原性が検証されたことがあります。しかし内容的に相反するものが混在しており、神経系疾患とどのような関わりを持っているのかは今一つはっきりしていません。
日本国内でもかつて、猫におけるボルナ病ウイルスの病原性が検証されたことがあります。しかし内容的に相反するものが混在しており、神経系疾患とどのような関わりを持っているのかは今一つはっきりしていません。
病原性を示す調査
東京近郊で神経症状を呈した15頭の患猫を対照とし、ボルナ病ウイルスの血漿抗体率を調べたところ66.7%(10頭)だったといいます。またRNA保有率は53.3%(8頭)でした。死後解剖が許可された1頭の脳内サンプルからはボルナ病ウイルスのRNAが検出されたそうです(:Nakamura, 1999)。
別の調査では臨床症状の異なる3群の猫たちを対象とし、循環血中のボルナ病ウイルス抗体陽性率が調査されました。その結果、運動失調を呈した52頭中における陽性率が46.2%(24頭)だったのに対し、非神経系疾患を抱えた152頭中におけるそれが23.7%(36頭)で、統計的に有意なレベルで低かったといいます。また比較対照として臨床上健康な猫30頭も調べましたが、陽性率は0%でした(:Ouchi, 2001)。
別の調査では臨床症状の異なる3群の猫たちを対象とし、循環血中のボルナ病ウイルス抗体陽性率が調査されました。その結果、運動失調を呈した52頭中における陽性率が46.2%(24頭)だったのに対し、非神経系疾患を抱えた152頭中におけるそれが23.7%(36頭)で、統計的に有意なレベルで低かったといいます。また比較対照として臨床上健康な猫30頭も調べましたが、陽性率は0%でした(:Ouchi, 2001)。
病原性を疑問視する調査
ボルナ病ウイルスの保有率に関し、ランダムで選んだ83頭中11頭(13.3%)が陽性だったといいます。この調査ではウイルスRNAが検出されたにも関わらず、抗ボルナウイルス抗体を保有している猫は1頭も見つかりませんでした(:Nakamura, 1996)。
別の調査では東京近郊で入院治療を受けた199頭の猫が対象となりました。ボルナ病ウイルスに対する血漿抗体陽性率を調べたところ、全体の27.1%に相当する54頭で検出されたといいます。興味深いのは臨床症状との関連で、臨床上健康な群の陽性率が29.8%、神経系疾患を抱えた群のそれが33.3%、非神経系疾患を抱えた群のそれが22.2%となり、統計的な有意差が認められませんでした。さらに1歳未満の猫でも検出され、季節や年齢による陽性率の変動は確認されませんでした(:Someya, 2014)。
これらの調査結果が示唆するのは、仮に猫がウイルスに感染したとしても何らかの二次的な要因が加わらなければ病原性を発揮することはないという可能性です。
別の調査では東京近郊で入院治療を受けた199頭の猫が対象となりました。ボルナ病ウイルスに対する血漿抗体陽性率を調べたところ、全体の27.1%に相当する54頭で検出されたといいます。興味深いのは臨床症状との関連で、臨床上健康な群の陽性率が29.8%、神経系疾患を抱えた群のそれが33.3%、非神経系疾患を抱えた群のそれが22.2%となり、統計的な有意差が認められませんでした。さらに1歳未満の猫でも検出され、季節や年齢による陽性率の変動は確認されませんでした(:Someya, 2014)。
これらの調査結果が示唆するのは、仮に猫がウイルスに感染したとしても何らかの二次的な要因が加わらなければ病原性を発揮することはないという可能性です。
よろよろ病は多元性か
特徴的な神経症状を示した症例を便宜上「よろよろ病」と表現していますが、そもそもヨーロッパで報告された症例と日本国内で報告された症例が同一の疾患である確証は何もありません。疾患の原因が1つでなく、「ルストレラ性よろよろ病」「ボルナ性よろよろ病」など、複数のウイルスによって起こりうる多元的な病理概念を持っていた方が現状をすっきり把握できそうです。
原因ウイルスがルストレラであれボルナであれ、感染者の体内から都合よく対象ウイルスだけを駆逐してくれる治療法は現時点では確立していません(:Matsunaga, 2020)。必然的に「予防が大事」という常識に行き着きますが、ルストレラウイルスは感染動物の捕食、ボルナ病ウイルスは感染動物との接触が主なルートと想定されています(リス・鳥などの鼻汁や唾液中のウイルスが別個体の鼻粘膜を経由して中枢神経に侵入/傷口から末梢神経経由で中枢神経に侵入)。
むやみに猫を外に出さなければ感染リスクを激減できますので、結局猫飼いの常識である「室内飼育の徹底」が重要ということになります。
原因ウイルスがルストレラであれボルナであれ、感染者の体内から都合よく対象ウイルスだけを駆逐してくれる治療法は現時点では確立していません(:Matsunaga, 2020)。必然的に「予防が大事」という常識に行き着きますが、ルストレラウイルスは感染動物の捕食、ボルナ病ウイルスは感染動物との接触が主なルートと想定されています(リス・鳥などの鼻汁や唾液中のウイルスが別個体の鼻粘膜を経由して中枢神経に侵入/傷口から末梢神経経由で中枢神経に侵入)。
むやみに猫を外に出さなければ感染リスクを激減できますので、結局猫飼いの常識である「室内飼育の徹底」が重要ということになります。
ボルナ病ウイルスは強毒性株のほか元来のボルナ病ウイルスとは配列が大きく異なる鳥ボルナウイルスがオウムやインコから発見されています。ルストレラと合わせ、モニタリングが必要な要注意ウイルスです。
京都産業大学