猫の手首にあるイボの正体
猫の体には、ほとんどの人が存在すら気づいていない謎のパーツがあります。手首付近の手根球と呼ばれる肉球から、親指の幅(2cm)ほど肘寄りにある5mmくらいの小さなイボがそれです。飼い主の中には「できもの」「ほくろ」「腫瘍」「食いついたマダニ」などと勘違いして心配する人がいますが、すべての猫に標準装備されている正式な器官ですのでひとまずご安心ください。
イボの基本構造
このイボはスフィンクスなど無毛品種以外では被毛で覆われていますので、肉球のように外から確認することはできません。通常はそこから「触毛」(vibrissae, sinus hair, 洞毛とも)と呼ばれる長い毛が1~5本、外下方に向かって生えています。ちょうど口元の「ひげ」が手首から生えているような状態ですが、長さはやや短くせいぜい3cmほどです。
触毛の根本には「血洞」と呼ばれる静脈のたまり場があり、毛の先端で発生した動きを血液で増幅して周囲にある神経に電気信号を送るという構造になっています。血洞の周辺には自由神経終末のほかパチニ小体やメルケル細胞が分布しており、イボに加わった外圧やイボの形状の変化を敏感にとらえる仕組みになっています。
イボの名称は?
イボから生えている触毛には「手根触毛」(carpal vibrissae)というご立派な名前がついています。しかし100年以上近く前からその存在が確認されているにもかかわらず、触毛の土台に相当するイボに対しては未だに正式な解剖学的な名称が与えられていません。文献上登場するのは「elevation」(隆起部)、「carpal disc」(手根円板)、「tactile pad」(触覚球)、「簡単に触知できる青黒いこぶ」などです。
しかしイボが付いている部分は、厳密な意味では手根部ではなく、そこからやや肘に近づいた尺骨部です。また被毛に覆われているため、無毛で地面と接触することを前提とした「肉球」とも違います。そこでこのページでは便宜上、「触毛隆起」(しょくもうりゅうき)と命名して扱っていきます。
しかしイボが付いている部分は、厳密な意味では手根部ではなく、そこからやや肘に近づいた尺骨部です。また被毛に覆われているため、無毛で地面と接触することを前提とした「肉球」とも違います。そこでこのページでは便宜上、「触毛隆起」(しょくもうりゅうき)と命名して扱っていきます。
触毛隆起と手根触毛の役割
すべての猫が手首付近に持っている謎の器官「触毛隆起」およびそこから生えた「手根触毛」。この小さなパーツは一体何のためにあるのでしょうか?
猫の顔面にある触毛(いわゆるひげ)には明確な役割があります。例えば目の周辺の触毛は異物の接近をいち早く感知したり、ほこりや小さなゴミを静電気で吸着するなどです。また、口の周辺の触毛は暗い時でも周辺の状況を捉えるという役割を持っています。1932年にSchmidbergerが行った古典的な観察では、ひげがある場合はたとえ猫の目が見えなくても障害物にぶつからずに進めたのに対し、ひげがない場合は障害物にぶつかったり狭い通路をうまく通ることができなかったとされています。
では一体どのようなときに猫は手首の触毛を利用するのでしょうか?
猫の顔面にある触毛(いわゆるひげ)には明確な役割があります。例えば目の周辺の触毛は異物の接近をいち早く感知したり、ほこりや小さなゴミを静電気で吸着するなどです。また、口の周辺の触毛は暗い時でも周辺の状況を捉えるという役割を持っています。1932年にSchmidbergerが行った古典的な観察では、ひげがある場合はたとえ猫の目が見えなくても障害物にぶつからずに進めたのに対し、ひげがない場合は障害物にぶつかったり狭い通路をうまく通ることができなかったとされています。
では一体どのようなときに猫は手首の触毛を利用するのでしょうか?
獲物を捉える補助?
触毛隆起およびそこから生えている触毛は、前足を使って獲物を捕捉するときに役立っているのではないかという仮説があります。
キツネザルの手首から奇妙な長い毛が生えていることに最初に気づいたのはBland-Suttonで1887年のことです。その後1902年にはBeddardが、広範囲の動物種を調査し、ほとんどの哺乳動物が同じような房毛(tuft)を有していることを指摘しました。彼によると霊長類(ヒトと真猿亜目を除く)、ネコ目、ネズミ目、異節上目、有袋類はすべて有しているとのこと。最終的に彼は「有蹄類に欠落しているという特徴、および肉食動物やげっ歯類において発達しているという特徴から考え、前足で何かを把握する習性を持った動物が、獲物などを捕捉するときに役立っている」との推論に至っています。 彼の仮説にのっとると、猫の触毛や触毛隆起は、ネズミや鳥といった獲物を捕まえる時に何らかの機能を果たしているということになるでしょう。
キツネザルの手首から奇妙な長い毛が生えていることに最初に気づいたのはBland-Suttonで1887年のことです。その後1902年にはBeddardが、広範囲の動物種を調査し、ほとんどの哺乳動物が同じような房毛(tuft)を有していることを指摘しました。彼によると霊長類(ヒトと真猿亜目を除く)、ネコ目、ネズミ目、異節上目、有袋類はすべて有しているとのこと。最終的に彼は「有蹄類に欠落しているという特徴、および肉食動物やげっ歯類において発達しているという特徴から考え、前足で何かを把握する習性を持った動物が、獲物などを捕捉するときに役立っている」との推論に至っています。 彼の仮説にのっとると、猫の触毛や触毛隆起は、ネズミや鳥といった獲物を捕まえる時に何らかの機能を果たしているということになるでしょう。
木登りに役立つ?
猫の手根触毛は垂直方向に木を登るときに役立っている可能性があります。
1976年、フィンランド・ヨエンスー大学の調査チームはリス(キタリス)の腹部や手首から生えている触毛の役割を検証しました(Kangasperko, 1976)。組織学的に調べたところ5種類の神経線維が確認され、主としてリスが木に登るときの姿勢調整に役立っているのではないかとの結論に至っています。 リスの場合、手首の内側(親指側)にも触毛があり、また腹部からも触毛が生えていました。こうした特徴は猫では見られないものですが、猫も木に登りますので、ひょっとすると手根触毛で木の表面の位置や形状をすばやく捉えるという役割があるのかもしれません。
1976年、フィンランド・ヨエンスー大学の調査チームはリス(キタリス)の腹部や手首から生えている触毛の役割を検証しました(Kangasperko, 1976)。組織学的に調べたところ5種類の神経線維が確認され、主としてリスが木に登るときの姿勢調整に役立っているのではないかとの結論に至っています。 リスの場合、手首の内側(親指側)にも触毛があり、また腹部からも触毛が生えていました。こうした特徴は猫では見られないものですが、猫も木に登りますので、ひょっとすると手根触毛で木の表面の位置や形状をすばやく捉えるという役割があるのかもしれません。
速度センサー?
猫の手根触毛は自分自身の歩行スピードをモニタリングするための速度計だという仮説もあります。
2013年、ドイツにあるフリードリヒ・シラー大学イェーナの調査チームは、ラットの手首から生えている触毛に関する調査を行いました(Niederschuh, 2013)。その結果、この触毛は前足が地面に接する少なくとも0.02秒前のタイミングで地面と接していることが明らかになったといいます。役割としては、歩行サイクルの接地相の長さを測ることにより、自分自身の歩行スピードをモニタリングしているのではないかとのこと。ちょうどスピードメーターのようなものです。 一方、猫の触毛はラットのように地面に接するほど長く伸びていませんので、地面からの情報を受け取るために付いているわけではないのかもしれません。ただし走っている時の風圧で前足の先端にある触毛がひしゃげ、どの程度変形したかを敏感にモニタリングして、自分自身の速度を計測している可能性はあるでしょう。
2013年、ドイツにあるフリードリヒ・シラー大学イェーナの調査チームは、ラットの手首から生えている触毛に関する調査を行いました(Niederschuh, 2013)。その結果、この触毛は前足が地面に接する少なくとも0.02秒前のタイミングで地面と接していることが明らかになったといいます。役割としては、歩行サイクルの接地相の長さを測ることにより、自分自身の歩行スピードをモニタリングしているのではないかとのこと。ちょうどスピードメーターのようなものです。 一方、猫の触毛はラットのように地面に接するほど長く伸びていませんので、地面からの情報を受け取るために付いているわけではないのかもしれません。ただし走っている時の風圧で前足の先端にある触毛がひしゃげ、どの程度変形したかを敏感にモニタリングして、自分自身の速度を計測している可能性はあるでしょう。
怪我を予防?
猫の手根触毛は、足が接する前のタイミングで地面の形状を把握するためのスキャナーかもしれません。
2014年、ドイツにあるイルメナウ工科大学の調査チームはラットの手首から生えている触毛に関する調査を行いました(Helbig, 2014)。その結果、この毛は足が地面に接する前の段階で危険を察知している可能性が浮かんできたといいます。屋外に暮らしているげっ歯類はさまざまな接地面の上でバランスを保ちながら移動しなければなりません。その中には砂利道、落とし穴、ネバネバ、突然の出っ張りなどもあるでしょう。手首に付いている触毛がこうしたイレギュラーを事前に察知することができれば、足の裏を怪我したり穴に落ち込んだりすることもありません。 猫の手根触毛にも同じような機能がありそうですが、ラットの触毛に比べて猫の触毛は短く、前足が地面に接する前に地面の形状をスキャンすることはほぼ不可能です。ただし獲物に襲いかかるため、前足を折りたたんで姿勢を低くしている場合はラットと同じ状態になるでしょう。変な場所に足を踏み入れてハンティングが失敗しないよう、触毛で地面の形状をスキャンし、効果的な「忍び足」を実現しているのでしょうか。
2014年、ドイツにあるイルメナウ工科大学の調査チームはラットの手首から生えている触毛に関する調査を行いました(Helbig, 2014)。その結果、この毛は足が地面に接する前の段階で危険を察知している可能性が浮かんできたといいます。屋外に暮らしているげっ歯類はさまざまな接地面の上でバランスを保ちながら移動しなければなりません。その中には砂利道、落とし穴、ネバネバ、突然の出っ張りなどもあるでしょう。手首に付いている触毛がこうしたイレギュラーを事前に察知することができれば、足の裏を怪我したり穴に落ち込んだりすることもありません。 猫の手根触毛にも同じような機能がありそうですが、ラットの触毛に比べて猫の触毛は短く、前足が地面に接する前に地面の形状をスキャンすることはほぼ不可能です。ただし獲物に襲いかかるため、前足を折りたたんで姿勢を低くしている場合はラットと同じ状態になるでしょう。変な場所に足を踏み入れてハンティングが失敗しないよう、触毛で地面の形状をスキャンし、効果的な「忍び足」を実現しているのでしょうか。
単なる痕跡器官?
触毛隆起は単なるお飾りで何の役にも立っておらず、退化の途上にある痕跡的な器官である可能性もあります。
2007年、鹿児島大学の調査チームは人間の上唇に触毛を動かすための痕跡的な筋肉「触毛被膜筋」が存在していることを確認しました(Tamatsu, 2007)。チームによると35%の人で口輪筋と毛包を結ぶ線状の筋繊維束が見られたとのこと。人間は進化する過程で口元の触毛を失ったものの、その触毛を動かしていた筋肉はまだ痕跡的に残っているのではないかと推測されています。
人間の触毛や触毛被膜筋と同様、猫の触毛隆起も現在退化の過程にあり、実際はあまり使っていないのかもしれません。その場合、仮に触毛を切ったとしても猫の生活には何の変化も生じないはずです。
2007年、鹿児島大学の調査チームは人間の上唇に触毛を動かすための痕跡的な筋肉「触毛被膜筋」が存在していることを確認しました(Tamatsu, 2007)。チームによると35%の人で口輪筋と毛包を結ぶ線状の筋繊維束が見られたとのこと。人間は進化する過程で口元の触毛を失ったものの、その触毛を動かしていた筋肉はまだ痕跡的に残っているのではないかと推測されています。
人間の触毛や触毛被膜筋と同様、猫の触毛隆起も現在退化の過程にあり、実際はあまり使っていないのかもしれません。その場合、仮に触毛を切ったとしても猫の生活には何の変化も生じないはずです。
触毛と隆起はそのままに
猫の手首に付いている手根触毛、およびその土台である触毛隆起の役割に関してはさまざまな仮説がありますが、未だに存在意義がよくわかっていません。ただ、やみくもに切ってよいというわけではないようです。
1960年代、猫の触覚隆起と手根触毛に関する生理学的な調査がいくつか行われました(Nilsson, 1965 | Iggo, 1968 | Halata, 1969)。内容を大まかにまとめると以下のようになります。 触毛の根元に相当する毛包は血洞に取り囲まれており、血洞の外側には神経が分布している。また毛包部は強固な平滑筋に取り囲まれ、その下には5~13個のパチニ小体が並んでいる。 神経線維の中には自発放電しているもの、短い振動刺激に反応するもの、5分くらいかけて緩やかに放電が減っていくものがある。自発放電は自由神経終末、短い振動刺激に反応するのはパチニ小体由来の神経、そして遅順応性の線維はメルケル細胞由来の神経ではないかと推測される。
触毛が体幹方向にたわんだときにとりわけ強い放電が見られたことから考え、「手の近くある物体にいち早く気づく」「獲物をつかんだ時に刺激を受けやすい」「姿勢の微調整をする」といった役割が想定される。 血管や神経の分布が豊富であり、しっかりとした放電が見られることから、「退化の途上にある」という仮説はなさそうです。残るは「捕獲補助装置」「木登り補助装置」「速度計」「危険スキャナー」などですが、飼い主にとっても猫にとってもあって困るというものではありませんので、やみくもに切ったりせずぞのままにしておきましょう。 なお人間でも猫でも、ほくろや皮膚上のイボが大きくなってコブ状になってきたら皮膚がん(メラノーマ)の可能性があります。その場合は放置せず速やかに病院を受診してください。
1960年代、猫の触覚隆起と手根触毛に関する生理学的な調査がいくつか行われました(Nilsson, 1965 | Iggo, 1968 | Halata, 1969)。内容を大まかにまとめると以下のようになります。 触毛の根元に相当する毛包は血洞に取り囲まれており、血洞の外側には神経が分布している。また毛包部は強固な平滑筋に取り囲まれ、その下には5~13個のパチニ小体が並んでいる。 神経線維の中には自発放電しているもの、短い振動刺激に反応するもの、5分くらいかけて緩やかに放電が減っていくものがある。自発放電は自由神経終末、短い振動刺激に反応するのはパチニ小体由来の神経、そして遅順応性の線維はメルケル細胞由来の神経ではないかと推測される。
触毛が体幹方向にたわんだときにとりわけ強い放電が見られたことから考え、「手の近くある物体にいち早く気づく」「獲物をつかんだ時に刺激を受けやすい」「姿勢の微調整をする」といった役割が想定される。 血管や神経の分布が豊富であり、しっかりとした放電が見られることから、「退化の途上にある」という仮説はなさそうです。残るは「捕獲補助装置」「木登り補助装置」「速度計」「危険スキャナー」などですが、飼い主にとっても猫にとってもあって困るというものではありませんので、やみくもに切ったりせずぞのままにしておきましょう。 なお人間でも猫でも、ほくろや皮膚上のイボが大きくなってコブ状になってきたら皮膚がん(メラノーマ)の可能性があります。その場合は放置せず速やかに病院を受診してください。